コンテンツメディアの可能性
インターネットが一般の生活に浸透して10年程でしょうか。インターネットによる情報収集が当たり前になり、様々なコンテンツにインターネットを介して触れることができるようになりました。最近よく聞くのが、「テレビ?見ないよ。全然面白くない、時間勿体ないし、インターネットで充分じゃない。」ということです。僕自身一時はそう思っていました。でも、反動と言いましょうか、僕は近頃テレビもよく見ますし、ラジオもよく聴きます。
確かにインターネットに溢れるCGMコンテンツ(ブログやSNSなど)は、マスメディアからは取得することのできない僕個人にとってトレンドを追うことより重要な、より僕の生活にとって最適化された情報を届けてくれますし、綺羅星の如く鋭い視点での論評はしばしば有名な批評家のそれよりも的を得ている場合があります。こういったことは視聴者参加と言いつつも、お偉いさんのプライドを傷つけない様に進行される討論番組とは比較にならない価値があると思います。
またマスメディアに流れる情報は体よく加工されてしまっているということも、インターネットを好む人たちにとって大きな要因になっていると思います。ジャーナリズムへの不信は今に始ったことではないですが、いわゆる「編集」というやつが物事の本質を歪曲し曲解して、メディアにとって都合の良い情報として、スポンサーや視聴率によりビッグインパクトを与えれるような内容に塗り替えられてしまいます。
ただ一方でマスメディアの強さもあります。それは予算、時間、労力、これらはすなわちメディアとしての体力です。インターネットのコンテンツは、まだどうしてもこれらに関して恵まれているとは言えず、予算は限られており、ロングスパンでの制作は行われず、そのほとんどが少人数で行われ、かつ多くのコンテンツがショートスパンでの連続性に欠ける、頭でっかち尻すぼみであることがほとんどです。
マスメディアであるがゆえの制約ということは多いですが、マスメディアであるがゆえに許されるリッチコンテンツの開発力というのは、いくら広告比率がインターネットに移行してきており、ネット広告がラジオ広告を抜いたからと言っても、まだまだインターネットが及ぶところではありません。特によく練られたドキュメンタリーはインターネットでは全く及ばない多様な情報を物語として提供してくれますし、各界の有識者が頻繁に出演し言を発するメディアという意味でTVにはインターネットには及ばない強さがある。
どんな情報でもインターネットで手に入るというのはおそらく錯覚で、インターネットで手に入る情報、その裏付けをとるというのはそれなりに手間のかかることですし、情報の完成度というのはWikipediaがBritanicaの収録語数を抜いたからと言って、必要な信頼性の水準に満たされているとは思えません。
というわけで僕は実はインターネットが好きなマスメディア擁護派にという立ち位置だと思っておるのですが、一方で今マスメディアが向かっている方向性、というのは果たして正しいのかと考えると疑問に思っています。インターネットに歩み寄ろうとしている、プライドが欠落したマスメディア、そういう印象を受けているのも事実です。
インターネットの情報がCGMによって無限に自由に膨らみ網羅していくからこそ、マスメディアは情報の「幅」ではなく「質」を高めるべきです。良質なコンテンツ開発のメソッドはこれまでのマスメディアの資産でありましょうし、より高度なジャーナリズム、インターネットというバラツキのあるメディアに対するアンチテーゼとしての、洗練され成熟した情報発信というのが求められてくるのではないでしょうか。
マスメディア対ニッチメディアという構図をハイメディア対ローメディアという構図に塗り替えるべきだ、というのが僕の考えです。先述したように、予算、時間、労力、すなわち体力に恵まれた既存メディアが、いつまでもマスとニッチという最早その言葉さえあまり意味を持たなくなった対立軸にいつまでも拘っていると、それはコンテンツメディアとしての質の低下を避けられず、ひたすら成長を続けるインターネットにメディアとしての存在感を奪われてしまうと思います。
ワンセグ、デジタル放送、ネット放送、放送の多様化は進みますが、そこにあまり魅力を感じず、それよりも今はただただ放送ということの幅よりも質そのものの向上に真摯に真剣に取り組むべきだろうと思うのです。コンテンツメディアとしてのレゾンデートルが問われる今だからこそ、予算、時間、労力をかけ、良心と倫理と節度のある、質の高いコンテンツメディアとしての証明が、今求められていると思います。
『世界遺産』と『トップランナー』が好きです。




