醜さの美しさと美しさの醜さ
「醜悪」なんて言葉があるくらいですから、とかく「醜い」という言葉は嫌われ者です。「醜聞」なんて言葉もありますね。「醜い」は「汚い」とも違って、美観に対する軽蔑を含む否定語という感じがします。
「ブス」という言葉の語源も諸説あるそうですが、有力なのはトリカブトの根が「付子」と呼ばれることから「付子」が転じて「ブス」という音になったようです。顔立ちをブスと呼ばわるのはいかがなものかと思いますが、「あの人のああいうところがブスだ」とか「あの人のああいう受け答えがブスだ」的な相手の醜いところをを辛辣に語る時の言い方は、逆にウィットが利いていてなるほどなと思ったりします。
「ブスかわ」なる若者言葉があるそうです。『ブスの瞳に恋してる』というドラマがありましたし、国民的ブスカワちゃんコンテストなるものまであったようです(両方ともフジテレビ)。この「ブスかわ」という感覚はある意味新鮮で、それは自分が最近考えていたことと共通項があるやも知れません。
Gerald Kersh氏の『壜の中の手記』という短編集を読みました。日本ではあまりポピュラーではありませんが、パン屋、クラブの用心棒、レスラー、銀行事務員、ボディガード、巡回セールスマン、バーテンダー、フランス語教師などの職業を転々とした、特殊な経歴の持ち主で、その世界には「綺譚」という言葉がふさわしいと思います。
とりわけ『豚の島の女王』は非常に異色で、しかしこの作家はこの物語を通じて「醜さの美しさ」という難題を見事に描いています。醜さの美点をまず説いて、その上で、それが狂気へと帰結する短い物語は「醜さの美しさ」とそこに孕む純粋さや無垢さ、その儚さを読み手に感じさせる傑作だと思います。
小説『嫌われ松子の一生』は違った意味で「醜さの美しさ」を描いた作品だと感じました。映画ですと中谷美紀が主演で、演出も非常に美しいですが、小説はそんな御伽噺的世界ではなく、むしろただただ残酷です。しかしその中で、一人の女性が堕ちていく様、醜く変わり果てていく様を通じて、人間の本質的な美しさみたいなものを作者山田宗樹氏が伝えようとしていたのであれば、その試みは見事に成功していたように思います。
醜さと美しさというのは対極で、その度合いは天秤の振れ幅の問題です。しかしながら、時に「醜さの美しさ」ということに目を向けてみると、そこには新しい発見や驚き、今まで見えていなかった真実が埋もれていることがあるかも知れません。
蛇足ですが「美しさの醜さ」となるとこれは即ち「醜悪」で、何事も「美しい」ということだけに話を帰結させようとする一国の総理大臣(スローガンは繰り返すものだと言えばそうなのですが)を見ると、多少なりともそこに「醜さ」を感じざるを得ません。




