« エヴァンジェリストのススメ | メイン | 全うする »

90年代に青年期を過ごした記録

大掃除をしていたら高校時代に書いたもの達が出てきました。その中でも社会学の授業で「いじめ」を扱ったレポートが、今の時勢と10年近いずれがあるもののタイムリーかなと思い乗せてみます。前半部分が饒舌過ぎて、後半部分息が上がって分析がうやむやになってる感が否めませんが、90年代に青年期を過ごした記録としては、見直す価値があろうかと思いました。


「いじめ」
12E 加藤 康祐

この夏、『14歳酒鬼薔薇聖斗』、このフレーズを一体いくつのマスコミが取り上げただろうか。兵庫県神戸市須磨区の土師淳君が殺害されたこの事件は、その残虐性、異常性から、われわれ現代社会の中に存する人間に対し、いくつもの疑問を投げかけていたように感じる。事件は、単なる幼児虐待騒動にとどまらず、マスコミの在り方や、家族の在り方など、様々な社会問題へ飛び火していった。私はこの事件をここ数年間何かと騒がれた、「いじめ、及び幼児虐待問題」の一連の流れの一応の終結であるというように考えている。

いじめそのもの自体は、有史以前から人間が社会という一集団を築いていく上で、必然的に存在していたもののはずである。しかしながら、いじめが国家という巨大な社会の中で、このような大きな社会問題として位置付けられるようになったのは、極々最近のこのであるように思える。

このレポートを通して、いじめが社会問題となった経緯を追求し、「いじめ」の本質を見定めることで、いじめ問題のこれからについて考えていきたい。慶應ニューヨーク学院という日本の外にある日本人社会において、なかば主観的になかば客観的に、現代日本のいじめ問題について考察することで、今現在日本に住み、いじめ社会を肌で感じている人々とはまた違った結論を導き出せれば良いと思う。また、いじめ問題の持つ流行物的正確が、単なる一個人の問題に留まらず、広く社会全体からの影響であるという点から、題材として非常に社会学的であることも、このテーマを選んだ理由の一つである。


それでは、いじめとは一般的にどのように定義されているのだろうか。岩波書店出版の『広辞苑』第四版によると、いじめとは、「特に学校で、弱い立場の生徒を肉体的または精神的にいためつけること。」とある。つまり、いじめとは、単位社会の中において強者が弱者を虐げることをさすわけである。しかし、どうやら我々の父母の世代と我々の世代、もしくはそれ以降の世代においてでは、いじめという行為の認識のされ方に多少の相違があるようなのだ。父母の世代のいじめとは、「ガキ大将」と呼ばれる子供社会のヒエラルキーのトップに位置する存在が、節度のある暴力によりそれなりの上下関係を築こうとする、ある意味健全な行為だったと言える。それが、我々の世代、もしくはそれ以降の世代では、いじめは集団が弱者に肉体的、精神的暴力をふるうという、きわめて陰湿なリンチ的行為へと様変わりしてしまっている。私はこのいじめの形態の変化に、その時代背景を象徴する何らかの社会的営力が強く働きかけているように思うのである。

我々の父母の世代、すなわち1960年代から70年代にかけて青年期を過ごした人々は、いわゆる高度経済成長というめまぐるしい経済復興の中で、その感性を育んできたことになる。第二次世界大戦で敗北し、敗戦国として、新しい資本主義国家としてのゼロからのスタートを切った日本国家と日本人は、欧米諸国に代表される先進国に追いつくために、一丸となって政治、経済の発展に努めた。そして、資本主義という理念とそれのもたらす経済的利潤は、軍部による独裁体制に変わる新たな人心の拠り所として、日本人の国民意識を統率した。そのころの青年達は、弱者より強者、個人より国家権力といったように、常に自分より上にあるものへの反抗を美徳としたようだ。その最たる例が大学抗争であったのだろう。厳しい統制、もしくは強い集団意識を持つ人間は、逆にそこから生み出される強い信念、道徳観を持っており、従って弱者をいたぶるような行為には走らなかったのだろう。

これに対し、我々、1990年代に青年期という多感な時期を過ごしている人間は、高度経済成長後の資本主義の迷走と初めて直面している世代と言うことができると思う。高度経済成長は、1980年代に入り、二度の石油危機を経て、安定成長路線へと定着する。そして、1991年よりバブル経済が崩壊することによって、戦後から続いた日本の著しい経済復興は終焉を迎えることになる。バブル崩壊以降は経済停滞期が騒がれ、第3次、もしくは第4次的産業は一応の振興を見せるものの、社会全体を通しては現状維持的であり、下降の兆しすら見えるようになってきている。こうした、経済状況をめぐる変化から、我々の父母の世代に存在していた資本主義的上昇志向による社会の結束の構造が瓦解しつつあると私は考える。E.デュルケムが『自殺論』の中で用いた集団擬集性という言葉を用いるならば、競争的資本主義社会の崩壊により、国民の「集団擬集性」、すなわち集団への帰属性が弱まったことで、現在の日本の社会不安は高まっていったということができる。

国民はそのほとんどが中産階級の生活を送れるようになり、富や名声よりも、ゆとりや自由を求めるようになってきている。現代社会は、資本主義的競争社会の衰退と共に、進むべき指標を持たない「曖昧な社会」へと変貌を遂げようとしているのだ。その曖昧な社会の中で、現代日本人は「自由の二面性」に苦しめられている。

自由の二面性とは、1941年に発表されたE.フロムの『自由からの逃走』の中で、著者がナチスファシズムのドイツにおける台頭を説明するために用いた考え方で、近代人にとって自由は二面的な意味を持つことを指摘している。一般的には、「自由」は、近代人の求める理想であり、かけがえのない価値である。しかし、逆に言えば、自由であると言うことは、自然と他者との結び付き、「一次的きずな」から切り離され、一人で生きることを意味するから、そこには孤独や不安が付き纏ってくることになる。そして時には、この孤独や不安が人々にとって重荷となり、それを振り捨ててしまいたいという気持ちを人々に抱かせてしまうことがある。

この自由の二面性に現代日本社会は侵され始めていると私は考えている。資本主義的競争社会からの束縛が弱まり、より高い自由を得ることで、逆説的に国民の社会に対する不安感、不信感が強まってきたのだ。このような社会的な共通意識は、なにもいじめ問題だけに反映されているわけではなく、その兆候が様々な分野に現れている。特に話題として印象が強かったのは、新興宗教「オウム真理教」による一連の事件である。あのような、世紀末的な事件が起こったことは、オウム真理教という宗教にすがろうとする信仰者の不安感が非常に強いものであったということを示唆している。

このような社会不安は実際どのように「いじめ」という社会問題に影響を及ぼしているのだろうか。ここでD.リースマンの『孤独な群衆』における社会的性格論を参考に考えてみたいと思う。リースマンは資本主義社会における社会的性格の変遷を、主としてアメリカの上層中産階級に焦点を合わせ、三段階に分けて説明した。資本主義ながらの伝統や慣習に忠実に従う「伝統指向型」の性格類型が支配的であるが、資本主義が発達し、近代的な市民社会が発展してくると、このタイプは、うまく社会に適応できなくなり、かわって、自分の内部の信念や良心に従って行動する「内部指向型」が優勢になってくる。それは、いわば剛直で個性的な性格であり、また禁欲的に仕事にエネルギーを集中できるタイプであるので、資本主義発展期、すなわち高度経済成長期の日本の、仕事中心の社会によく適合している。しかし、資本主義の一層の発展と高度化によって生産性が高まり、仕事や生産よりもむしろ消費や余暇や人間関係に重点が移ってくる現代社会では、周囲の他人やマスメディアに登場する同時代人を行動の基準または指針とする「他人指向型」が、支配的な社会的性格のタイプになる。このタイプは、自分の信念を貫くことよりも、他人とうまくやっていくこと、他人から受け入れられ認められることを求めるので、他人の意向に絶えず気を配り、それを的確にキャッチし、それに自分を合わせていこうとする。

私は「いじめられる人」を内部指向型から他人指向型への社会的転換の際にあふれ出てきてしまった人々というように考えているのである。日本人の集団帰属性の強さを一つの国民性と考えるならば、日本国という集団の結びつきが弱くなってしまった今、人々はより小さい集団に密度の濃い帰属を求めざるを得なくなり、他人指向的でない者は、その中におさまることが難しく、従って「仲間はずれ=いじめ」というような経過でいじめが増加しているのだ。

これまでのことを、フロムの論法を借りてまとめてみようと思う。まず高度経済成長からバブル崩壊への流れの中で、資本主義的競争社会が衰退する。これを社会経済的条件とする。その社会経済的条件が、集団主義というイデオロギーを刺激し、他人指向型という、日本人にとってきわめて後天的な社会的性格を通して、集団に適応できないものを疎外しようとする「いじめ」という社会的歴史的変動を起こすのだ。

次に具体的に「小さな集団に密度の濃い帰属を求めざるを得ない」ということは、一体どういうことであるか説明することにする。経済競争の流れが失墜しつつある現在、日本という大きな集団に変わる、日本的集団性の拠り所として、より小さい集団の重要性が高まってきている。社会において、最も小さな生活集団は家族である。子供社会においては、その次に学校がくる。また、最近、学歴社会の極端化に伴い、より大きくなってきた存在として学習塾がある。学習塾は子供の教育の場として学校と同様、もしくはそれ以上の役割を担っている。さらに学習塾は子供社会の社交場でもある。部活、クラブ活動もまた一つの集団として大きな意味を持っている。そこは「しごき」と呼ばれるいじめの存する場でもある。実際、厳しい練習や上下関係からの苦悩死が問題になったこともあった。このような小社会を舞台として、いじめは起こるのである。これら小社会の在り方、内部指向型人間への関わり方を考えていくことが、これからのいじめ問題を考えていく上で、最も着実な道ではないかと思う。逆説的に言えば、教育制度や少年法に関する討議をいくら行ったところで、「いじめ」という人間基盤に根源的に関わる問題を永久的に解決することはできないでえあろう。

これからの「いじめ」問題は一体どういった道を辿るのだろうか。今まで説明してきたとおり、いじめというのは決して個人的な人間関係のトラブルの塊ではなく、集団における一つの社会問題であるので、教育制度の改革や、少年法の見直しといった直接的一次的なものでは解決できない問題のように思う。一時的な対応策であるならば、そういった範囲でまかなえるかもしれないが、一つの社会現象を完璧になくすためには力不足である。

私が述べてきたような論理を遡って考えるのならば、資本主義的競争社会の終結による、国家としての集団凝集性の低下が、いじめ社会を生んだ訳であるから、いじめを撤廃するためにはなんらかのかの変革により、国家がまた一つにまとまることで、集団凝集性を高める必要があると私は考える。そこで、このように国家が一丸となるであろうと考えられる状況を列挙してみる。

①社会の情報化が著しく進むことによって、完璧な画一化社会が生まれる。
②体制が再び独裁制になるか、もしくは全体主義社会となる。
③戦争が行われる。
④対外的に大きな問題が生まれ、国民の注意がそこに集中する。
⑤マスメディアによるいじめの実体化が進み、それが一般道徳として植え付けられる。

順を追って説明していくことにする。①は数十年、数百年後に他人指向型社会の最終形態として、全ての人間の心理が画一化されることで、いじめが自ずとなくなるという考え方。②は日本が戦前もしくはそれ以前の体制に戻ることによって、いじめは社会問題として扱われなくなるだろうということ。③は戦時中は人々の集団意識が高まり、いじめなどの人間関係のもつれがなくなるという考え方。④は内の問題を外のひどさを強調することでうやむやにしてしまおうということ。⑤はいじめを絶対空くとしてマスメディアが報道することで、メディアの持つ刷り込み現象的影響力から、日本人の持つ社会的性格をコントロールできるということ。

どれも次の世代もしくは、そのまた次の世代といったように先の先の話になってしまう。いじめというきわめて根源的な社会問題を解決するためには、それくらいのことが必要なのだと言える。

そこで、現在我々にできることは、教育とマスメディアを使った応急処置程度のことだと私は考える。道徳的な意識を植え付けようとすることは、後々この社会が共有する意識として、影響力を発揮するであろうから、結局は、地道な個人的作業しか今のいじめ問題を解決することはできないのだ。いじめははっきりとした定義域を持たない、曖昧な存在であるが故に、簡単に法律で縛ることはできないのだ。いじめを世の中から撤廃することは、決して容易なことではないのである。


ここ5年間の日本の経済状況の大幅な変化により生じた「いじめ」問題は、資本主義的競争社会の過渡期における社会混乱の歪みから生まれた副産物であると言えるように思う。いじめを子供社会の問題と見ずに、社会一般の問題と見る目が、今の日本人には必要である。また、環境問題などの目に見えるものばかりが、社会の発展に伴う弊害として注目されている昨今、人々はいじめなど目に見えない問題を、突発的なものだと捉えがちであるが、そういったものも、また人間の驕りから生まれた社会的弊害だということを認識する必要があるのではないだろうか。

☆del.icio.usへ追加 ☆はてなブック マークへ追加


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.experience-transporters.com/mt/mt-tb.cgi/2218

コメントを投稿


画像の中に見える文字を入力してください。

kosukekato.com

kosukekato.comはプランナー、加藤康祐による論考ブログです。

検索
記事

Mobile
コメント
Flickrというセンスの坩堝に溺れる
  • れーじ 12/19
  • 加藤康祐 12/19
思考のスタッカート化
  • がお 08/12
  • 加藤康祐 08/12
パラダイス鎖国と言われて
  • sattin 03/11
  • 加藤康祐 03/11
  • sattin 03/11
  • 加藤康祐 03/11
自分の成長と収入の増加に相関はない
  • umitanuki 02/29
  • 加藤康祐 02/29
トラックバック
    人たらし
  • <徳島早苗の間> 01/11
  • 振り向けばブログ。 01/11