SDWT 5 : 言葉の行方
この10年ほどで消費する言葉の量が飛躍的に増えた感じがしています。会話で「話す言葉」は置いておいて、ここで問題にしているのは「書く言葉」です。ポケベル、PHS、携帯、パソコン、時代の変遷と共に扱う文字数は増えてますし、メール、ブログ、SNS、プライベートだけでも殊に文字を書いて記録に残す、コミュニケーションを取る機会が増えています。高度情報化ってことは、言葉をファッションや音楽のように、大量生産大量消費する社会ってことなのかも知れません。これは由々しき事態です。
渡哲也氏みたいな寡黙で含蓄があって渋くてダンディみたいな男像って、そのうち世の中的に通用しなくなるかも知れません。「男は背中で語る」が「男は携帯で語る」みたいになってしまったらどうなんでしょう。嫌ですね。がしかし、世の中的に高度情報化が進んで、どんどん言葉への需要が増えていくと、20年後30年後にそういうアウトプットが出て来ないとは言い切れません。案外もうなってたりするのかな。
一方でこういった言葉の大量生産大量消費傾向は、リテラシー向上という意味では良いのかも知れません。今まで小説なんて読まなかった人たちが携帯小説を読んだり。今まで新聞を読まなかった人たちがWEBサイト閲覧で時事情報に触れるようになったり。
国語の教科書に乗っている美文麗文は今になって思えば、素地として教養としてその年代に質の高いものに触れていたことは価値があったと思いますが、読んでる当時はやはり小難しくて馴染めなかった記憶があります。国語の教科書に掲載されているものがおしなべて全て質が高く洗練されていて本質的に意味があるものかどうかなんて、今の僕にも判断付きませんが、とは言え人が選んだものですから、絶対的なものでもないでしょう。
思うに、自分が小さい頃にハンドルできる文字情報なんてたかが知れてたんだと思うのですよね。教科書、ノート、手紙、新聞、雑誌、文庫本、程度。それに今はメールだWEBサイトだ何だって選択肢が増えているわけです。しかもそれらにイチイチお金がかかるわけではないので(勿論、通信料はかかるわけですが)、小さい時から触れることができる文字情報が事実上無限というのはなかなか素晴らしいことのようで、怖くもあります。
ペアレンタルコントロールなんて言うと、性的な内容、暴力的な内容、公序良俗に反す内容をフィルタリングかけて、子供に見せないようにするわけですが、しかし、それ以前に「質の低い情報」に触れる危険性はどうなるのでしょうか。質が低いなんて言うと、おまえの文章も質が低いんだと突込みが入りそうですが、今の一般的な言葉を使うと玉石混交のネット社会においては「玉」を探し出すには大変なリテラシーが必要と言われていますし、「石」と「玉」の判別もリテラシーが発展途中の若い人には判断基準がないわけですよね。
例えばスポーツであるとか、例えば遊び方であるとか、ということは僕らの時代もトライ&エラーで身につける、ないし遠回りさせても方法論を見つけさせる、というようなことがあったと思うのですが、特に「言葉」ということに関しては多分に誰かによって既に選別された「玉」を学ぶ材料として与えられていた気がします。
だから僕は僕より若い世代の人たちが、これからどういう言葉を身につけて、どういう言葉を生み出して、どういう言葉で社会を織り成してゆくのかって言うのに、ちょっとした学術的興味があるのです。
言葉の行方は知れませんが、今の当たり前って長い時間で見た時に、結構な変化だと後世の人に受け取られる気がします。




