信仰と信心
『千の風になって』がクラシックでは異例のミリオンセラーになったのだそうです。元々、米国に伝わる詩で、「近親者の死、追悼、喪の機会に読み継がれて来た有名な詩」とWikipediaにはあります。ネイティブアメリカンに伝わる詩という説もあるそうで、何となく「精霊」的な考え方があって、日本の「八百万(やおろず)の神」信仰にも近しい感覚があったりするのかなとも感じました。
Do not stand at my grave and weep, I am not there, I do not sleep. I am in a thousand winds that blow, I am the softly falling snow. I am the gentle showers of rain, I am the fields of ripening grain. I am in the morning hush, I am in the graceful rush Of beautiful birds in circling flight, I am the starshine of the night. I am in the flowers that bloom, I am in a quiet room. I am in the birds that sing, I am in each lovely thing. Do not stand at my grave and cry, I am not there. I do not die.
信仰というのは日本以外の国ではあまりにも当たり前のことのようで、今の日本は信仰を持たない稀有な国という話は割とよく聞きます。外交官とかが「無宗教」などとそのまま訳して言ってしまうのは社交のプロトコールとしてあまり良くないらしいですし、理解されないらしいです。
そもそも日本は戦後「信仰」を抑圧されつつ築かれて来た国ですし、今の日本のあまり宗教に縛られない社会のあり方と言うのは、世界各地で今もなお行われてる弾圧や戦争を見ていると、随分居心地のいいようにも思います。それはある種、歴史という民族が担う縛りを、「敗戦」によって強制的にリセットされたせいかも知れません(と思っているのは日本人だけかも知れませんが)。
何かこう僕の視座で言葉にすると、祖父母の世代を見ていて思うのは、「信仰が強い」のではなく、「信心が深い」という感覚なのではないかと思います。僕も「信仰が強い」人間にはなりたいとは思いませんが、「信心が深い」人間にはなりたいと思います。
宗教観と死生観というのは切っても切れない関係だと思いますが、昔は「多くの人に葬儀に参加してもらえるような、素晴らしい人生を送ること」というのが僕の死に向き合う時のある種の旗印というか、それが遂げられれば本懐なのではないかと思っていました。今でもまあそう思います。
『嫌われ松子の一生』の松子のようにひっそりと死んでいったけど懸命に生きた、というのも一つの姿としては良いのかも知れませんが、僕は生来の寂しがり屋なので、多くの苦楽を共にした人達に囲まれていたいと思います。
話は少し脱線ですが、僕の後輩を含むチームがビジネスコンテストに想石というアイデアを応募して審査員奨励賞をもらったそうです。何でも村上隆氏から絶賛だったとか。これは墓参りに来る人達の色々なインタラクションをITデバイスを使って助け、故人を偲び、思いを残し、思いを馳せる、そんなことをサポートするアイデアです。
僕に言わせればこれは故人を通して「信心を深める」ことに他ならず、言い換えれば人は死んだ後の人生は、残された生きている人達の中にのみ息衝くものだと思うのです。だから神や仏を崇めずとも、故人への畏敬の念を忘れてはならないと思うのです。そのための「信心」です。
最近仏教美術に惹かれてまして、ああいうものの力の凄さを感じる反面、今は宗教に向かってそういう創作意欲というかエネルギーを注ぎ込む時代でもないからなあ、ということはなんとなく思っていました。僕の宗教観なんて拙いものですが、ただ故人への畏敬の念だけは疎かにしてはいけないな、と改めて『千の風になって』を聴いて感じました。




