思考のスタッカート化
テレビをバチバチやっておりましたら、昨今のお笑い事情では、長いネタがウケないということを漫才師の方が嘆いていました。何かこう速射砲的というか、短い時間に細かい笑いがたくさんないと今の視聴者は笑ってくれないということのようです。刹那的と言えばカッコはいいですが、視聴者に大きな笑いのための我慢強さがなくなってきた、そこへ至るまでの場が持たなくなったということを、プロの漫才師が切実に感じているそうです。
Nicholas G. Carr氏の「Is Google Making Us Stupid?」という記事を読みました。以前、僕も「「思いつき」に溺れないために」という記事を書いており、これはかなり主体的な感想文だったのですが、Carr氏はこれをメディア論、認知科学論的なアプローチで読み解こうとしています。
特に気になったのが「思考のスタッカート化」ということでした。
話をしていて「話が長いよ」というのは、一般的に褒め言葉としては使われませんが、しかし、一方でエッセンスしか出せない、結論だけを言い放って、その経過を説明できないというのも問題なのではないかと思います。小学生の算数みたいな話ですが、算数というのは正解を導けるかより、どういう方法でその解答に至ったかということが、その人の独自性だったりすると思いますし、その面白みだったりすると思います。
その経過に重きを置けないということは、話に面白みを出すためには、ドラスティックだったり、刺激的だったり、強圧的だったり、とにかく突飛な答えを捻出するしかなく、そういうことって世相とか社会にも何か投影されている、人間の退化のような気さえしてきます。
「ネット型の人間は~」というステレオタイプに当てはめるつもりもないですし、そういうステレオタイプを持ち出したら、僕は真っ先にそのフレームに嵌め込まれる類の人間だと思うのですが、とは言え「自分をGoogle化すること」が理想像って言うのは、ちょっとあまりにもその発想自体がGoogle的過ぎるというか、経過を端折った短絡的な世界観のような気がします。
プレゼンテーションとかにも似たようなことが言えますね。パワーポイントで作るいわゆる「プレゼン」っていうのはエッセンスだけを抽出したものです。ですから企画をパワーポイントの上だけで考えるのは危険です。エッセンスだけを考えていても、熟考には至らず、何かこうトレンドキーワードを結びつけて並べただけのプレゼンテーションていうのは、説得を目的とするプレゼンテーションにおいて、全く意味を為しません。
カジュアル化する、ということは決して悪いことではありません。間口が広くなるし、リーチも長くなると思います。しかしながら、ショートスパンの断続的な行動しかできなくなってしまうのは、長い80余年の人生に思いを馳せると、ちょっと「持たない」んじゃないかと思うのです。
「人生が持たない」って、ちょっと由々しき事態だと思いませんか。





コメント
激しく同意しますわ。
昨今の小学生事情も同じ。長い話だと聞かない。聞いていられない。一生懸命聞こうとしても無理。
そして、ときどき自分も長い話で、やっと落ちが来るという形は無理になっているかも。
マニュアル化社会とか、そういうのも問題があるのかも???
と思った瞬間に、昔の人は、読み書きそろばんと、マニュアル化したものをたくさんやってきたのかも???とも思ったけど、、、
やっぱり似て非なるものなのかもね。
なんでもかんでも
見てパッと分かるようにならなきゃいけない、なっていなきゃいけないみたいな。ユニバーサルデザインとか、そういう発想って、素晴らしい面もあるけど、人間を堕落させる面もあるのかもね。
使いにくいからこそ、脳みそには良いとか、
そういうことってあるんだろうな。って思いました。
かくゆう私が、スタッカートタイプなんですが。
投稿者: がお | 2008年8月12日 00:47
あー、色々お疲れ様でしたね。喉お大事にね。
これ実は今日行われた勉強会の予習のための文章だったのだけど、これの対立軸というかカウンターパンチとして「即興性」ってことをある友人が言ってた。
俺「即興性」って苦手分野だから、こういう結論に至ったのかと、再考の余地もちょっと感じたりしました。
僕は結局フォーマルライティングとカジュアルライティングのバランスが大事なのかなあとか思ったりもしたんだけど、なんか若い子って意外と「個の晴れの場」を得る機会が昔より減ってるのではないかと思ったり=フォーマル、ね。
子供持ってる親とかじゃないから憶測でしかないのだが。
僕は豪速球投げてしばらくタバコふかしているタイプです。
投稿者: 加藤康祐 | 2008年8月12日 00:57