否、否、否
「いな・いな・いな」とでも読んでください。このブログでは「批評」ということをちょくちょく扱いますが(僕が批評家としての小林秀雄氏を好いておるので)、今日は「批評」じゃなくて、ちょっと「否定」ということに触手を伸ばしてみたいと思います。
僕はそれほどのオプティミストではないですし、所謂頑固な性分ですから、好きと嫌いの区別もありますし、言わなくていいことは言わなくて良いと思いますが、言わなきゃいけないことは言わないといけないと思いますし(前置きが長いですね)、けれども否定することって実に勇気もパワーもいることではないかなあと思います。
あんまり人に嫌がられることは言いたくないですもの(誰しもそうだとは思うのだけれども)。そういうこともあって、カジュアルな否定とか存在し得ないのです。「ちょっと違うと思うよ」とか、「何か違うんじゃないか」とか。基本的に「いいじゃん、いいじゃん」と相槌打っていたいので、否定をするのであれば、結構徹底的に否定してしまう気がします。
「労苦を伴わない否定」というのは僕がこの世の中で一番好きではないことの一つでして、否定ってことでダメージを受ける人がいるんだから、投げ手にもそれなりの労苦が伴わないとトレードオフじゃないと思うわけです。余計なことは言いたくない性分ですから、言わないといけないという判断を下せるまでは思い悩まなければいけないのではないかと。
物事を肯定するだけで進んで行く世界なんてちゃんちゃらおかしいですが、かと言って自分の価値尺度の範囲だけですぐに物事を否定できる世界ってのは殺伐としすぎている気がするわけで。逆説的に言えば「否定」ってことは肝であり、物事を肯定的に捉えようとすればするほど実はその重みは増してくるもののようにも思います。
なので、「否、否、否」、間違っていると思っても、肯定を試みて、それでも間違っているという判断であれば、初めて「否」と「定める」、即ち「否定」するという論理構造があってもいいのではないかと。
世の中、瞬時に白黒つけなきゃいけない仕事の人も立場の人もおりますし、判断に時間をかけることがコストと考える向きもそりゃ当然あるのだろうけれども、価値観として立ち位置として、否定するってことの立場は凄い重いと感じます。
ただ僕を否定してくれる人はとても貴重な栄養源なのでそれは全然有難いことですし、脈絡もない否定をするような人とは付き合っていないので、常にそこには何かが満たないことへの反省と、言わせるまでに至らせてしまった自戒があるわけで、建設的な経験だろうと思うのだけれども。
「もう恋なんてしないなんて、言わないよ絶対」宜しく、二重否定=強い肯定でおさまってくれるのが一番いいんですけどね。




