私的TE・N・KAI考
「コペルニクス的転回」という言葉がありますね。僕がこの言葉を知ったのは、耐震偽装問題でヒューザー小嶋進氏を横浜市長の中田宏氏が評して「コペルニクス的バカ」とメディアからの質問に答えたのがきっかけだったのですけれども。
コペルニクス的転回というのはImmanuel Kantが自分の哲学を、地球中心説に対して太陽中心説を主張したNicolaus Copernicusに準えて評した言葉だそうです。僕が丁度大学生時代によく好んで教授が使っていた「パラダイムシフト」という言葉にも近しいのかも知れません。
僕は割と本を読む方なのですが、その割にクオートと言うか、誰それが「なになに」と言っていた引用ができません。本を読んでも、ほとんど諳んじている文言なぞありません。そういう意味である種マクロ的な読み方をしていて、それは物語や論理の「展開」を楽しむことに終始している、と言っていいのかも知れません。
先日、伊坂幸太郎氏の『魔王』という小説を読みました。通常の物語は起承転結で構成されるのがセオリーですが、『魔王』は物語が展開し終わったところで話が終わってしまいます。言わば「収束」せず「結末」がない、という状態。伊坂幸太郎氏の作品に限らず、僕が好む、例えば恩田陸氏なども、ミステリーに必要な謎解きが完遂されない、という作品がしばしば見受けられます。
こういう作品は何を以って評価されているかと言えば、物語や論理の展開ではないですかね。
よく異業種で酒を飲む時に、自分の土俵でのみ話をする人は勿体無いと思います。自分の土俵だけでなく、話し相手や第三者の土俵に話を「展開」できる人が、面白い人なのではないかと思います。
建築に関しては素人なのであれですが、Antoni Gaudiという人の建造物は、全体像を規定して始めたのではなく、何だかこう次々と湧き出てくる「展開」の連鎖で形作られている気がして、故に人工物でありながら、あたかも生命体のような、躍動感とユニークさがあるのではないかと思います。
突飛であればいいというわけではありません。最終的に、「楽しい」とか「美しい」とか「ためになる」とか色々目的とするものはあるでしょうから、しかしゴールを目指す道のりで、いかに聴衆を飽きさせず物語を「展開」し、聴衆の価値観を「転回」できるかというのが焦点のように思います。
物語というのは、普通に語れば非常に味気ないものだと思います。「今日、朝顔を、植えました」では、幼稚園生の絵日記ならまだ愛らしいですが、一般的には無味乾燥という評価でしょう。そこを補うために文体やディテールやレトリックがあるわけですが、僕が何より大事だと思うのは「展開」です。
大きな展開の中に、無数の小さな展開があります。小説を読んでいて、キャラクターの名台詞に心打たれる人もおりましょうが、ことに僕が惹かれるのは会話の展開という、言わば「流れているという構成」であったりします。そういうものが折り重なって、つまり展開の連鎖が物語ということができるでしょう。
名台詞が無くとも、名シーンが無くとも、展開が飽きさせなければ、人の価値観を転回させる作品は成立し得る、という意味で展開力というのは大事だと思います。小説に限らず、ビジネスでも、アートでも、ファッションでも、メディアでもそうだと思う。
むしろ「現代」ということの大きな意味は、展開にこそある、と言い切っていいと思っているくらいです。




